N-moca LIGHT

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

粘着性を正しく発揮しよう

誰かが死んだというニュース、そしておそらく自ら命を絶ったらしいとき、真っ先に私の頭の中に浮かぶのは、私の粘り強さを世間に見せつけたい、ということ。

生死の問題は絶対的に個人的なものであり、他人と状況を比較してその死の選択が正しかったかどうか、などの議論の対象にできるものではない。

それを大前提として、しかし世間は「幸せそうに見えたのに」とか勝手なことをあれこれ言う。そういう世間から見た状況として、孤独・孤立というのはどちらかというと死の選択もやむを得ない側、として認識されやすいと思う。

今の私が置かれている状況(繋がりはほぼ両親のみ、会社の同僚や配偶者子供恋人友人なし)は、それでも絶対に自分では死なないことの選択の大切さを、見た人が感じる未来のためにあると思っている。一見ネガティブに見える状況が、未来の生活の糧になるなんていくらでもあり得る話なのだ。

もうどうしても死を選んでしまったような時、おそらくそこには生の選択の余地はなかったはずで、そのことを他人があれこれ言えるものではないけど、死ぬことばかりが視野に入ってきているような状況の時に、これも何かの役に立つからこうなっているのだと考えて切り抜ける時、必要なのは粘着性ではないか。

ねちこい、て一般的には嫌われる性質だけど、それを自覚している人はもうそこからは逃れられない。ネガティブに思える自分の性質も、取り扱い次第ではポジティブに使えるのだ。

ただしそれには訓練が必要になる。粘着性を他人に向けてストーカー行為をしたり、嫌な出来事に向けていつまでもぐちぐち言ったりするのは、粘着性という性質を放っといたらいちばん自然に発揮されやすい方向性なのだ。

だけどそっちには向けない代わりに、取り組んでいる何かに向けてひたすら精進するとか、生きるということそのものに執着して死の誘惑を振り払うとか、そういうことを続けていくことで、粘着性は正しく発揮されやすくなり、自分の欠点だったものが魅力の一部に変化するのだと思う。

誰にでも欠点と思える性格はあるものだけど、それは魅力に変わる可能性を秘めていて、そのためにはその性質をどのように使うのが正しいのか知り、訓練を続けること。

私は自分では死なない、と改めて宣言しておこう。自分が欠点を魅力に変えられた未来を見るため。

もし私という自我が肉体を乗り換えても(生まれ変わっても)続くのだとしても、今の人生は今しかない。どんな長いと感じる人生でも、死ぬ間際になったらきっと時間が足りなかったと感じるんじゃないかな。もうやれることは何もない、と思うような時は休むこと。たぶん休めと言われてるんじゃないかな。何も肉体を脱ぎ捨てる必要はないのだ。

休んで、自分の欠点を見つめ、正しく発揮しよう。

[Post At 6:30]