N-moca LIGHT

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日本人差別のこと

 

コロナ禍でアジア人差別が広がってきたようだ。先頃サッカーのフランス代表2選手の過去の日本人差別の動画が問題になっていて、私もいろいろな見解動画を見てみたりした。その中の一つにコメントした内容がこちら。

人種差別って問題が大きいように見えますが、本質的には小学校のクラスのいじめが拡大したようなものだと思います。

言わないから舐められるのは確かだと思いますが、人それぞれ性質が違うものだし、そういう個性(国民性)を否定されるのもまた違和感があります。

欧米人はクラスのヒエラルキー上位層みたいな地位だという暗黙の認識のようなものが世界中に漠然と存在していて、だから今回のサッカー選手たちも謝罪の意思が見てとれない謝罪文になったのかなと思います。まあ意識の根本から舐められているってことですね。

いじめ問題を解決するすべすら思い付けない私にはお手上げです‥😢

 

この問題を本当に根本から考えるとするなら、世界史を全部洗い直さないと本質は見えてこないんじゃないかと思う。差別はダメだと言うのは簡単だけど、人間は感情を持つ生き物で、感覚的に醜いと思うものは攻撃の対象になるし、自分より上だと漠然と感じているものに対しては大目に見るようになる。それ自体は自然な行為だからこそ、差別ってなくならないんじゃないか。つまり、差別は動物的反射行動なのだ。

 

そういう漠然とした認識っていうのは誰かが何かを発したとかの単発的な個別の事柄が発端になっているのではなくて、大昔から脈々と受け継がれてきて、自分でも気付かないレベルで染み込んでいるものが発端になっているから、意識の高い人が意識の高い行動を呼びかけても、その意識の高さについていけない人たちはどうしても出てくる。動物的感覚から抵抗感が生まれているのかもしれない。

 

外国人の中にも当然意識の高い人たちはいて、彼らはすべての欧米人が日本人を見下しているわけではない、本当に好きな人たちもいるってことはわかってほしい、と言うし、そういう人たちは素晴らしくありがたいなと思うけれど、残念ながらそういう人は限られている。

 

これは何も人種差別やいじめなどの人間関係における意識の高さだけの話ではなくて、先日書いたゴミ問題のことに関してもそうだし、たとえば車の運転のしかたとか、ライブ会場でのマナーとか、あらゆる状況において言えることだと思う。周囲の人に配慮できる人と、自分のことしか考えられない人というのは、残念だけれどいるものだ。

 

もしも世界が前者だけになれば世界はもっとマシになるだろうけど、それは後者を切り捨てるということであり、寛容な社会という観点からは真逆になる。自分のことしか考えられない人を根気よく導いていく必要があるわけだけど、それがあまりにも難しいことはとっくに答えが出ている。

 

もちろんだからと言って差別やいじめを容認していていいわけはない。でもそういう行動に出てしまう人を黙らせるだけでは、抵抗のエネルギーに蓋をするようなもので、本人の認識が変わらない限りいずれなんらかの形で爆発する。そういう認識を変えようにも、私にはどうすればいいのかさっぱりわからない。せめて自分はなんとかして前者の層に食らいついていくべく努力するくらいしか思い浮かばない。

 

 

ところで私は今イタリア語を勉強している。 

外国語を学んでいると、ときどき講師が「何のために学ぶのか、やっぱりじっさいのコミュニケーションのため」と言うけれど、私はネットや趣味で見聞きする言語を理解したいという思いだけで学んでいるところがあるので、イタリア語に関しても、じっさいにイタリアに行ってみたいとはあまり思ったことがない。(ナポリのピッツァは食べてみたいけれど)

 

となるとイタリア人と話すこともないかもしれないけれど、もしイタリアに行くことになったとしても、日本人差別のことが頭をよぎるだろうな、と思うと、語学学習への意欲が削がれる。この頃、そのせいで少しイタリア語への思いも陰りがあるのを感じる。ただしこれは過去何度もあったように、私に提示されている超えるべき壁、というだけのことかもしれない。とりあえず検定はなんとか受検したいと思っている。