N-moca LIGHT

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

今あるものに感謝できる人になれるか

「ないものを嘆くのではなく、あるものに目を向け味わい感謝する」

ということがよく言われるけれど、その物事環境が当たり前であるからこそどこか白々しさがあったり、たしかにそれはありがたいとは思うけれど自分はもっと上を望んでるんだと思ってしまったりして、案外難しいことだったりもする。

だからこそそれをうまくできるように、たしかに自分はこれだけのものを持っていて恵まれているな、幸せなんだなと実感することを促されているのかもしれないな、と思う。

普通考え難いような道幅の広い道路の陥没とか、突然の豪雨で冠水するとか酷いときは土砂崩れで家が流されるとか、そういうニュースを頻繁に見かけるようになった気がするけれど、気のせいだろうか。

エネルギー体の調整については、目に見えないだけに誰にでも主張して理解してもらえるものでもなく、先人の話を聞いて自分なりに試行錯誤するしかない。

おそらく同質のエネルギーが引き寄せ合うことは間違いなくて、それは「類は友を呼ぶ」という言葉だけで世間を眺めても納得いく話だと感じる。

ということは自分が発しているエネルギーを引き寄せやすくなるというのもたしかにそのとおりということになるけれど、「自分が発している」と言ったってそれがなかなかに複雑なので、調整が難しい。

心理学では潜在意識とか深層意識とか呼ぶけれど、私は神智学が言っているエネルギー体のほうがイメージしやすい。「肉体→エーテル体→アストラル体→コーザル体」というやつで、界層が深まるごとに、表面的な意識で操作するのは難しくなる。

いくら表向き「雨風を防げる家があってありがたいな」とか思ってみても、深いところで「そんなことは自分にとって当たり前過ぎて感謝するようなものでもない」という認識になっていたら、全体としてのエネルギーはそっちの認識が優先される。木の葉と根のようなもので、一枚一枚の葉は儚いものだけど、根はその木全体としての支え、基になっている。

だけど、実際に突然に不可抗力によって家を奪われてしまう様をまざまざと、こうも次々と見せつけられると、自分に置き換えて考えやすい。今無事でいられていることは当たり前のようでいてじつは奇跡の連続で成り立っているのだということ。

なんてことを犠牲になった人に直接言うのは、当然ながらあまりに失礼なのであって、そこは分けて考える必要がある。今の私は、実際になんらかの災害に巻き込まれた人は、その人や地域がそういうエネルギーを引き寄せたというよりは、もうただただ「巻き込まれてしまった」ということなのだと考えている。いくら自分のエネルギーを整えていたって抗いようのない大きな力というものは存在する。

ただし、時々災害や事故などのエピソードで「いつもならあの場所にいたのに、あのときはたまたま別の場所に行くことになって助かった」というようなことも聞く。それはその人自身のエネルギーのなせるわざではないかなと思っている。まあ本当のところはわからない、何にしろ助かった命は大切に扱おうという気になるだろうなとは思う。

抗いようのない大きな力に巻き込まれてしまうかどうかはわからないけれど、日常的な状況を良くするには自分を取り巻くエネルギー(というかそれが自分の実体なわけだけど) を調整することが欠かせない。そのためには根っこの部分で自分がいかに奇跡的に今無事でいられているのかということを「知っている」ことは絶対条件で、それができるようになることを促されているのだと思っている。

 

人類の二極化という言葉、嫌いだけれど日に日に認めざるを得ないなという思いも深まっている。できる人できない人ではなくはなから諦めている人自分をよりよくしようと努力する気のある人の二極なのだ。自分の頭で考えようとする人と、そうでない人とも言える。そりゃ二極に分かれるのはしかたないな、という気がする。

災害の映像を見て、我が身を振り返り現状に感謝できる人と、ただただ誰かを非難し嘆き悲しむ人。もちろん責められるべきは責められて然るべきであり、今からでも取れる対応は取ってもらわないと、社会としても困るけれど、それだけじゃない、ポジティブな側面を見れるかどうか。

声を上げることは大事だ。でもまず自分。一人ひとりが改善していけば社会はマシにならざるを得ないのだからね。そうであってほしい。そういう社会に属したい。