N-moca LIGHT

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

社会的価値の過渡期の時代

Amo me stessa.

I love myself.

今自分が知覚している世界とは並行して別の世界があるかどうかは別として、人間界はレイヤーでできている。

魂のレイヤーはもうそこに、いわゆる「厳然としてある」というやつで、存在の価値を誰かが評価できるものでもなく、あるんだからある、以上!というレイヤー。

スピリチュアルでよく言われる「あなたはあなたのままでいい」というのはこのレイヤーのことを指している。

その人が何ができるとかできないとか、どんな容姿をしているとか何が好みとかは一切問題にはならずに、守られている基本的人権のことでもある。


しかし人間は社会的存在であり、このレベルになると人によって異なる様々な条件が問題になる。テストの点数が良いほど尊ばれる社会があったり、フォロワーの数が多いほど価値が高まったりする。

他にも外見の良し悪し、性格、スキル、趣味嗜好など、挙げればキリがない。そういうもので人は常に他人を評価し、評価されている。

このレベルで評価される条件がすべて低くても、基本的人権は守られている。だから他人がいろいろ言っても、自分が他人を損なうことを意図的にしなければ好きなようにしていていい。

依存症ではないかと思われるほどお酒を飲んだりタバコを吸ったりして体を悪くしたり、ある人にとって不快な音楽でも迷惑がかからないスペースで聴くなり演奏するとか、ロープで縛り上げて性行為に耽るのでも双方が快感を得ているのなら別に問題ではない。

誰も読まない日記をブログに書き綴るのもまったく同じレベルの話であり、それは基本的人権という意味では問題にならない。しかし社会的存在というレベルにおいては、そこに価値が発生することは稀である。


おかしなもので、この社会的価値のレベルでは、価値が高いとされる条件が揃っているほど、精神的成長度が低くても自尊心を得やすい。逆に、価値が低いとされるほど、自尊心を保つには精神的な度量を試される。

過去の時代は誰もが何も考えずに社会的価値を高めることを志してきた。少しずつ社会がそれに疲れ始め、多様性が叫ばれるようになると、社会的価値が低くてもいいじゃないかという価値観が生まれ、スピリチュアルが受け入れられるようになった。

けれどもまだまだ現在は転換期、過渡期の時代であり、これまで当たり前だった価値観はそう簡単にはなくならない。社会的価値が低くてもいいとする価値観を推進したい人(私)自身の中でも、まだまだ社会的価値が高いほどいいとする価値観との葛藤があり、何かのきっかけで後者が心のなかで膨れ上がった時、ギリギリで保っていたバランスはすっかり崩れてしまう。

前者が常識になるためには、社会的価値が低くても愛をもって人に接し自由に生きている人が増えることが必須で、そのバリエーションの一人として私が存在しているのだと思っている。

しかしこういうのはそもそもの自分の軸が安定していてこそで、先述のようにバランスを崩してしまったなら、また安定的な自尊心を構築するために、休養と視野の拡大が必要なのです。


[Posted at 11:25]