N-moca LIGHT

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

過去にはもう今はなかった

過去を探す旅に出た。二十年の時を経ても変わらないものもあるようだったけど、そこにはもう当時の私も、大好きだった人も居なかった。

「あーこんなんだっけなあ、、こんなんだっけ?」という感じで、感動がほとんどなかった。時間が二十年過ぎたのだということを確認するために行ったのかもしれない。

人は誰もが物質的には「今ここ」に在る。精神の次元は物質次元に左右されないので、いつまでも昔のことに執着して、忘れられずにそのことばかり考えているとか、死んだ愛犬のことばかり考えているとか、そういうことができるけれど、物質的にはちゃんと時間は過ぎている。

もちろん過去に生きるのも、未来のために今を犠牲にするのもその人の選択に任されているけれど、魂の容れ物である肉体は「今ここ」に生きざるをえないので、精神もそこに合わせたほうが、より生き生きと生きられる。

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まず最初に思い浮かんだ場所、それほど遠いわけではないけど行くとなったらちょっと気合が必要な場所にその店はある。南海トラフが来たらもう二度と食べられないかもしれないので、その店を今日の第一目標とした。昼時より少し早めに着いたせいか、以前は行列ができていたのに今日は空席に余裕があった。少し待って呼ばれて受け取りに行って、写真も撮った。それはたしかにおいしかったけど、私の記憶にあるおいしさの感動はなかった。いろいろと残念な点も目についた。

その後懐かしい街の現状を確かめに行こうと考えていたけど、日が照りつけているし渋滞や人出の多さが脳裏をよぎり、一軒目のがっかりも手伝って一気に行く気を失い、早々帰ることにした。その代わりと言うか、大学の時に付き合っていた人とよく行っていたスーパーが帰る途中にあるので寄ってみることにした。スマホのナビに任せていると、狭いところで曲がれという。するとその道に、その人と一緒によく食べた、すじモダンの店があった。しかも店の前にコインパーキングがあった。用意されたかのような成り行きに、ああ、今日はここに来ればそれで良かったのだな、と思った。


お分かりいただけるだろうか。すじモダン(大)、いやあ、でかい。いかにも大学生男子の好みそうな風貌。これを当時の私は一人でペロッと食べたのだったか、、忘れてしまったけど、彼とはあちこち食べに行き、結果「あいつめっちゃ食べるんだよ」と陰口を叩かれていた。良き思い出である。今の私にはさすがに多いので、4等分して冷凍することにした。

店の大将に、二十年前に近くに住んでいて今もやってるのを知って食べたくて来た、と話した。当時もただ買いに行ってただけで話をしたとかでもなかったので当時の様子をすごく覚えてるということは全然ないけど、大将は髪も眉毛も真っ白になっていた。私の話を聞いて、横に立っている奥さんを指さして「まだやめさしてもらわれへんねん」と嬉しそうに言っていた。仲睦まじき下町の高齢夫婦って感じで微笑ましかった。

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思い出すのは当たり前に大学当時の人達の顔で、それでもいろいろあったから今会いたいと思う人はいない。寂しい人生だと自分でも思う。だけどどうすればいいかわからない。

わからないけどたしかなことは、もう過去は遠の昔に通り過ぎ、今は今を生きればいいということだ。

今年の誕生日で、信じたくないけど私は45歳になる。そしてその日、月と太陽は重なり、新月になる。宇宙は私の新たなスタートをかなり強力にサポートしてくれている。このエネルギーを無駄にしたくない。うまく次に進めるように、あと約1ヶ月、過去を片付ける時間。前に進もう。

[Posted at 16:35]

[追記 2022-07-03 14:55]
「過去にはもう今はなかった」ってよくよく考えるほどに変な言葉だな。
「今にはもう過去はなかった」だと「には」が落ち着かないし、「今はもう」にするとこれも落ち着かない。
過去の思い出が詰まっている場所にはもう今は今の自分も当時付き合いのあった人たちの面影もなかった」の略なんだけど、略し過ぎ?

言葉って難しいし面白い。