N-moca LIGHT

Everything should be okay because YOU ARE ALIVE.

あっという間に師走になってしまった

「師走」という呼び方には忙しなさが帯びていて、一年の締めくくりの月になんと相応しい呼び方だろうか。おまけにどこか寒さも感じる。

数日前までは地球が温暖化しているような秋の日々だったのに、天気予報で「冷え込みます」と聞いたと思ったら一気にあえて「師走」と呼びたくなるような冬になってしまった。まだダウンコートは早いかな、と悩まなくてもいいような寒い季節がやってきた。車でどこでも自由に走りづらい季節になってしまった。

この土日はきっとどこかに出かけよう、できればドライブで少し遠出を、と思っていたのに、いざ出かけてみればどの道もだいたい通ったことがあって自分がどういう気分になるのかまで想像できてしまって、結局遠出はやめて和歌山市内をぐるっと走っていつものドラッグストアで買い物して帰ってきてしまった。


孤独というのは不思議なもので、その寂しさに飲み込まれてしまったら地底の淵から二度と這い上がれないような絶望感に襲われるけれど、一旦その現実を受け入れて命あることの感謝に立ち戻ることができれば、別に家族や恋人友人が居ても居なくても何も変わらない、ただ今一人で過ごしているだけ、という心境になる。

寂しいのはたいてい、今の自分には叶えられないような幸せを他人が謳歌しているように見えるときで、SNSはそういう他人の幸福感が増幅して見えやすいので、孤独に苛まれているなら他人の幸せそうな姿からはできるだけ目を逸らす必要がある。その人が幸せなのは私を不幸に陥れるためではないのだから、そういう幸せはそっとしておくのがいい。それを見て私が幸せな気分にならない限り。

人はそれぞれ幸せを感じるシチュエーションは異なるもので、けれどもなんとなく社会に先導されているようなところもある。そういう典型的な幸せに当てはまっていること自体が安心感をもたらすということもあり、誰かの考える幸せに自分を当てはめること自体が必ずしも間違っているわけじゃない。

でももし自分は人とは違うのかもしれないと思うのなら、典型的な幸福感には当てはまらなくても自分が何を幸せと感じるか、そのことに自信を持って自分は自分の考える幸せを作っていけばいいし、そういう自分に誇りを持っていい。他人からは十分幸せそうに見えなかったとしても、そう思う人にはそう思わせておけばいいし、自分でも十分じゃないと思っていたとしても今の自分にできる限界というのはどうしたってその都度決まってくるものだから、今できる分だけ自分を幸せにできているなら、それでその時の十分を満たしているのだ。

他人の基準に惑わされる、というのが一番良くないし、人間が社会的存在であるがゆえに一番難しいところだと思う。だからSNSとの付き合い方は難しい。本当は私にツイッターなんて必要ないはずなんだけど、それでもついつい覗いてしまうのは、そこに社会的存在であることの証明を求めているからかもしれない。


今年の冬は燗酒を楽しみたいな、と漠然と思っていたけど、夕食を一人小料理屋ごっこにする、というアイデアを思いついた。独りなら独りの楽しみ方がある。誰よりも自分を愛すること、それがこの物質次元に命を授かった者に課せられた使命なのだ。

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